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トップクリエイターにきく!

賞金稼ぎ的漫画家デビューと、衝撃的な手塚先生との出会い

日本を代表するクリエイターたちは、カラーページプリンタをどのように使いこなし、また、プリンタに何を求めているのか?
トップクリエイターにきく!漫画家 寺沢武一さん
Creator's File NO.02 Buichi Terasawa as Comic Artist

僕がマンガを描き始めたキッカケは、賞金稼ぎでした。浪人時代、彼女の友達の家に行ったらなにやら描いているんですよ。「なにを描いているの?」と聞くと、「この少女マンガ雑誌の賞に応募して、入選したら100万円もらえる」と言うんです。当時の100万円って、今の貨幣価値でいうと1000万円ぐらいですかね。印象としては、「宝くじみたいなもんだな」と思いました(笑)。その子の描いていた絵がそれほどうまくはなかったので、「これなら自分でも描けるな」と思いこんでしまって、さっそく応募したら、なんと佳作入選。サラリーマンの初任給が7万円の時代に、15万円もの賞金を手にしまったのです。今にして思えば、完全にビギナーズラックだったんだけど、当時の僕は調子に乗っちゃってね。ありとあらゆる少女マンガ雑誌を調べて、賞金付きのマンガ賞に応募しまくったんです。各賞の締め切りをカレンダーに書き込み、多い時で週に2作も描いていました。賞金目当てではあったのですが、完全に、週刊連載みたいな作画ペースでした(笑)。

その後、本格的にプロのマンガ家を目指すのは、手塚治虫先生の手塚プロに入社してからです。少女マンガの賞金稼ぎは、アルバイトとしては良かったけれど、一生続けられないと思い始めていた頃、『週刊少年チャンピオン』で連載中だった『ブラックジャック』の最終ページに「社員募集」の文字を見つけたのです。「これだ!」と思って、さっそく応募したんだけど、当時の僕は、まともな就職活動をしていなかったので、社会的な常識が欠落していた。「面接試験」の意味を知らずに「面接を受けたら合格」と早合点して、家財道具一式を、手塚プロ宛に送りつけてしまったのです(笑)。運良く合格できたからよかったですが、手塚プロからしたら、迷惑な話だったでしょうね。当時は手塚先生の第二の黄金期でした。連載は週に7本。週刊マンガ誌だけでなく、日刊の新聞にまで連載を続けていた時期でした。

アシスタントとしての僕の仕事は、背景画を描くことでした。「指定描き」と呼ばれる作業なのですが、手塚先生の出す指示が、まるでコンピュータ並の記憶力をもとにくだされることに驚きました。たとえば、「1977年の週刊少年マガジンの×号の×ページ、上から×段目のコマの草を描いてください」などと指示が出る。で、資料室でその雑誌の該当ページを調べると、たしかに、描いてほしいであろう草がちゃんと存在するんです。ある夜のことでした。僕ひとりが会社に残され、「寺沢くん、ちょっと手伝ってくれ」と、手塚先生から言われたことがありました。『火の鳥』の単行本用の作業だったのですが、週刊連載時は、ストーリーが難解すぎて、僕には理解できていなかった。先生はそんな僕の気持ちを察していたのでしょうか。連載時のコマをバラバラに切り始めて、それらを新たに並べ替え始めました。映画の世界で言う「編集作業」です。その編集作業を経て、難解だった『火の鳥』がものすごく読みやすくなったのが衝撃的でした。その後、プロのマンガ家となった今でも、この「編集作業」は役立っています。

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