Vol.5 粋なグルメガイド

先年に亡くなった植草甚一さんが、よく私にいったものだ。
「どうして、イノダのコーヒーは、あんなに旨いんでしょうね?」
「さあ……」
コーヒーは好きだが、植草さんほどの〔マニア〕ではない私は、どうにも返事の仕様がなかった。
「ねぇ、どうしてでしょう?」
「おわかりにならない?」
「あなた、どうです?」
「コーヒーにくわしいあなたが、わからないのに、私がわかるはずはありませんよ」
(『むかしの味』池波正太郎 著/新潮文庫)
池波正太郎といえば、時代小説家として司馬遼太郎と人気を二分するほどの大家であるが、一方で、「食のエッセイ」というものを日本で最初に確立し、男女問わず圧倒的な支持を受けた作家としても知られている。
今では誰もが食について語り、テレビやウェブでは料理関係のものが主流になっているほどだ。ただし、この本が出版された80年代後半は、まだ食について語ることが珍しかった。
『むかしの味』は1988年に初版が発行されていることは興味深い。時はバブル時代の到来である。高級フレンチなどがもてはやされたころに時代とは背を向けたようなコンセプトだ。「むかしの味」というのは、なつかしい人間味が感じられる料理を出すお店と、そこに見え隠れする人間模様も含めた味なのである。いい意味でオヤジ的だ。
なぜビジネスパーソンにこの本をお薦めするか、というと、この本はそのままちょっとした接待や打ち合わせに使えるお店が満載しているからである。ぜひ、仕事で使っていただきたい。実用書としての価値は大であり、こんなお店を知っているあなたは、尊敬されるかもしれない。ただし、事前に味を確かめてから、人を誘ってくださいね!
〔まつや〕の蕎麦、〔万惣〕のホットケーキなどは、東京が誇る老舗の味であり、江戸文化でもあり、こういった味をいつまでも遺してほしいと思うのは、池波だけでなく、すべての日本人の思いであろう。
冒頭に引用したイノダコーヒーは、先ごろ東京にも進出してきたので、既にイノダのコーヒーを飲まれた方はいらっしゃるだろう。私は初めて京都でイノダコーヒーを飲んだ時、「なんて濃い味のする、重たいコーヒーなんだろう」と思った。ブラックコーヒーしか飲まない私にとって初めてのイノダコーヒーは苦々しい味だった。しかし、砂糖とミルクを入れて飲んだイノダのコーヒーは、甘くて苦くてまったりとしていて、なんとも言えないクセになる味であり、つい、はまってしまうコーヒーなのだ。
食というのは、誰でもコミュニケーションできる共通の話題なので、みなさんも『むかしの味』をガイドに食べ歩くのも、粋だと思いますよ。